「おどおどしてる人」になりたくない

最近、子どもを病院に連れていって予防接種を打った時に、先生にこう言われた。



「お母さん、慌てなくて大丈夫ですよ。」

恥ずかしかった。



別に、そこまで大したことではないと思う。

そう思うけど、それがショックだったということは、自分でもそれを意識しているということだろう。

私は「地味でオドオドしているお母さん」だと思われたくなかった。




「お母さん」じゃない時代も、もちろんおどおどしている人だとは思われたくなかったけど、それでもその時はまだよかった気がする。

でも、現実をちゃんと見るとすれば、今までも多分そうだった。お母さんになっていきなりダサくなったわけではなく、ここ数年の私は多分特にダサかった。

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所作がダサいというコンプレックス

元々自分に自信があるわけではないけど、休職してからメンタル面に自信がなくなってからの自分は特に、ずっとどこか「おどおど」している。

1対1で話している時はそこまで感じる人はいないだろうけど、特に動いている自分のだらしないこと、ダサいこと。

多分、自信のなさが姿勢や態度にも現れているというのがあるかもしれない。

とにかく一言で言えば運動神経の悪さもあいまって「普通にどんくさい」というか、まず所作が芋っぽいのだと思う。
少なくとも自己分析大好きな私は自分のことをそういうふうに捉えている。

これは自分自身への辛口評価なので、実際にはそこまで悪いと思う人がどのくらいいるかわからないけど、少なくとも素敵ですねとは誰も思っていないと断言できる。そのくらい、自分の所作には自信がない。


これを解消しようと、かっこいい女性になりたいと思って過去に色々研究したこともある。

でもここ数年はそこまで目を向ける余裕もなく、そんなに頑張っているわけでもなく、今まで以上にさらにダサくなっていた。身なりもそうだろうし、所作だって今まで以上に酷いかもしれない。

元々鈍臭い人がなんの努力もせずに放置していて、よくなるわけがない。

自分のダサさを披露する機会が増えた

最近実感するのは、特に子どもができてからこの自分のカッコ悪さを「なんとかしなければ」と思うことが増えたということだ。


もちろん子どもは私と親子とはいえ、全く違う存在なので私がどうあれ、子は子、私は私だ。

私がどれだけオドオドしてダサい大人であろうと、子どもは関係ない。

けど、情けなくなる。

社会人としても、プライベートでも、いい大人をやってたら他人と接する機会は多々あるけど、割とそのほぼ全てが「上部の対応でごまかしやすい」もので、今まで困ることはあまりなかった。

だけど子どもができるとそうはいかなくなった、と感じることがたまにある。

例えば冒頭で言ったような「子どもを病院に連れていく」ということ。

自分一人で病院に行く時はそんなこと思ったこともないし、それくらいの範囲内での対応なら「緊張する」とか思ったこともないし「自分はコミュ力が低いな」「対人が苦手だな」とか実感するようなことはなかったと思う。

でも子どもを連れていると、対応力が問われるというか「自分の要領の悪さがバレる…」と思ってしまうことが増えた。

病院や保育園、児童館などが苦手な理由

児童館に行くのが怖いという記事を去年書いたけど、まさにそれもここに少しつながっている気がする。

今まで一市民として(子どもではなくて私個人が)病院に行ったり、どこかに手続きに行ったりする時には何のプレッシャーも感じなかった。

なんと言ったらいいのか、母として「しっかりしてないといけない」という気持ちが強くなった


荷物一つとってもそうだ。ベビーカーを持ちながら行動するのも大変だし、抱っこ紐で子どもを連れている時に自分の荷物を取り出したり、子どもを紐から外して待たせるなど、一連の対応にモタモタすることがある。

これは冒頭で言った「元々私がどんくさい」ことにも由来しているし、それに加えた緊張感からさらに所作がぎこちなくなり、慌てた感じにうつってしまうことがあるのだと思う。

でも「この人慌てているな」と思われるほうがなんか恥ずかしいので、なるべくそういった児童館や保育園などの場では、どんと構えているふうに見えるよう、自分なりにかなり気をつけているつもりだった。

ただ、やはりボロが出ることはある。

photo by やよい

周りの母親は「ここってどうしたらいいんだろう」みたいな初心者ママの戸惑い的なものを感じず、場慣れしていてスムーズにこなせているように見えるとき。

自分だけテンパっている感じに見えたら恥ずかしいと言う気持ちがある。

気持ち的に焦るのか、見た目を小綺麗にしているママさんを見て恥ずかしいという気持ちなのかはわからない。多分無意識のうちに少し萎縮しているんだと思う。

「みんなこんなに軽やかに対応しているのに、もたもたしていたらダサいかも…」という気持ちを持ってしまっているのは私だけなのだろうか。

先日の出来事

冒頭に書いた「予防接種に行った」時の話。

サッと子どもの服を脱がせようとして、ズボンを床に落としてしまった。

注射の時は子どもを押さえてないといけないし、そのズボンをサッと自分のポケットにしまおうとしていたら、焦っていたように見えたのか「お母さん、慌てなくて大丈夫ですよ」と言われてしまった。



先生は優しい気持ちからこう言ってくれたのは分かってる。

それはありがたかったのだけど「ああ、やっぱり私って、あたふたしている感じでダサいのか…周りからはやはりそう見えていたのか…」と、改めて思ってしまった。

慣れてない人と思われたくなくて、スムーズにすませたいという気持ちが勝ってしまい、また失敗した。

また、ダサい人の行動をしてしまっているんだろうなと思うと、そんなダサい自分がまた嫌いになる。

私はママ友はいないし、他の子と遊ぶようなこともほぼない。外出するとしてもうちの家族でだけなのでかなりマイペースに行動している。なので、他の人のスタンダードがわからない。

もしかしてこのやり方はおかしいんじゃないだろうかとか、皆は予防接種の時にもっと脱がせやすい服装で来させているのか?とか思ったりする。



もし常識はずれだったらどうしよう。何か言われたり、変なママだと思われたくない。




そんな気持ちが根底にあるような気がする。

夫に聞いてみた結果

少し前、たまたま夫も子どもの病院診察に付き合ってくれる機会が一度あったので、その時私が慌てていてどんくさかったかどうかということを聞いてみた。

こういうのは身内に聞いてみたほうが率直な意見を聞けると思ったからだ。

そしたらさらにショックな言葉が待ち受けていた。

「確かに、早くしないとって思ってる感じとか、泣いた時とかにちょっと慌ててるんだろうなっていう感じはわかる。もっとどっしり構えてもいいんじゃない?」

と言われた。





うん、わかる。言いたいことはすごくわかる。

やっぱり私ってそうなんだ、やっぱり自分で薄々そうじゃないかと思っていたことは、別に過小評価じゃないよね。自覚あるもん、そうだよね。うん、そういうのダサいよね。とまた卑屈の波が来た。

おどおどしている人はダメなのか?


別におどおどしていること、それに伴う一連の行動が自分をダサくしてしまっていることが事実だとしても、別にそれがダメなわけではない。世間的には。

そもそも私のように、何も好き好んでダサくなろうとしているわけではなく、いろんな要素が重なってそうならざるをえない、無意識のうちにそうなっている人ばかりだと思う。

そりゃ、ダサいよりはダサくないほうがいいというか、自分の気持ちとしても爽快だし、見ている側としても「いつもあの人は凛としていていいわね」と思えるような見た目の人のほうが、気持ちいいだろう。

ただそれだけなんだけど。



どちらかと言えばそれによって「ああ、今日もオドオドして見えるかもしれない。こんな自分嫌だ」と思ってしまう自分への悪影響ことのほうが深刻だと思う。




あと、子どもへの影響もないわけではないと思う。

例えば、子どもの性格がおとなしければ「ああ、あの子のお母さんも地味でダサいもんね」と、レッテルを貼られるのはちょっと気の毒に感じている。

それもあるけど、良くも悪くも親の背中を見て育つ子が多いから、お母さんがおどおどしていて自信がなさそうだと「嫌だな」と思うかもしれない。

変わりたければ努力するしかない

なんでもそうだけど、やはり変わろうと思って翌日に、完全にかっこいいママに生まれ変われるわけじゃない。

これは母としてだけではなく、社会人としての振る舞いにも通ずるものがあると思う。


やはりここ数年の自分は(会社を休職してからは)完全に自信を失っているところがまだ後遺症的に残っている気がして仕方がない。

繰り返しになるけど、もともとかっこいい大人じゃなかったので、余計にそれが痛い。

でも、それが嫌なんだったら、それを「自分はこういうとこあるから」で片付けたくないんだったら、やはり努力するしかない。


どんくさい星の下に生まれたことを卑屈に感じるよりも、少しでも行動や身なりを変えていき、周りが見た時に「おや?」と思われにくい所作や行動を少しずつでも研究していったほうが、自分にとっての悪循環を断ち切れるような気がしている。

そのために今日から少しずつ行動を変えていく気持ちで色々と研究している。


2023年は脱ダサい人になりたい。


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