私の考え事について。「考え事」って大体ネガティブ。

2022年11月27日

久しぶりに書きます。

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夜中に考えたこと

昨日の夜はなかなか眠れなかった。

最近はメンタルのほうがちょっと不調なことが多くて、自分の今後に関する具体的な不安、体の調子に関する不安などが重なっている感じなのだと思う。

夜、寝ようとする時間はいつも割と早いけど、まだ休職している状況で、しかもコロナの関係であまりむやみに外に出ないようになったので、なおさら動く時間が少なくなった。

それで、あまり眠気も感じずに夜遅くまで悶々とするというのが最近の常で。

もし日中バタバタしながら働いていたら嫌でも疲れるので、自然とぐっすり眠れているとは思うのだけど。(仕事している時は起き上がれないというのはあったけど、寝れないということはあまりなかった)

いけないと思いながらも夜は様々な考え事が次から次へと出てくる。

GO!GO!7188の「考え事」っていう曲があって、まさにこの曲の心境。

私の場合「考え事」の内容って、大体いつもそんなに明るい話ではないんですよね。考えても仕方がないと冷静になれば思うことも、グダグダ考えてしまうわけです。

私が夜中に考え事をしている時って、3つに大別されるんだよな、と昨日ぼんやりと思っていた。

パターン1

具体的な悩み事についてどうしようか考える

まずこれに関しては一番わかりやすいネガティブな考え事。

一般的には、「悩み事=ネガティブなこと」とすると違うかもしれない。私の場合、こういう時に思い出す悩みごとは絶対に、答えが出なくてどうしようって悩んでいることだ。

悩み事(というか自分の中で決めないといけないこと)の中で「ポイントを現金にしようかAmazonギフト券にしようか」とかそういう軽めのトピックはこういう時は考えない。

あれこれ考えていて、ふとした拍子にそういうライトな話を思い出すこともある。けど、そのトピックを思い出したところで深くは考えないので、そのうちすぐ別の重めの問題にうつる。

パターン2

生活上で不安な要素を思い出してあれこれ考える

パターン1と一緒じゃないかと思う人もいるかもしれないけど、これは1とは違う。

パターン1の例としては「復職するべきか辞めるべきか」みたいな、具体的に答えを出さないといけないトピック。

でも、このパターンはそれとは違って「もし◯◯という病気だったらどうしよう」とか「自分や家族がコロナになって重症化したらどうしよう」とかそういう将来の不安に近いこと。

(自分の主観では)起きうる確率が割とあるかも…と思って心配なことってあると思うんだけど、特に結論を出したり決めたりするようなことではないものというか。ただこうなったらどうしよう、という心配なことがこれ。

パターン3

これってどうなんだろう?と雑多なことを考える

これこそ、どうでもいい考えごとに近いかもしれない。

パターン1やパターン2などのことを考えていて、そういえばこれって…など、元々考えていたことから派生してありとあらゆることにうつっていく感じ。

例えば、起きた事件の報道を見たり、芸能人のネガティブなニュースを見てそれについてなぜ起きたのかな…とか、その人の内面に何があったのかと勝手に想像を巡らせるなど。

今考えなくてもいいことや考えても仕方がないことが大半だし、これについてもポジティブではない問題が大半のような気がする。他にも、もっと些細なこともたくさんあるし、トピックは本当に多岐にわたる。

なぜ考えてしまうのか

今こうやって書いていても、冷静になにかに取り組んでいる時は「なんて無駄なことを考えているんだ」と思う。建前上そう言ってるんじゃなくて本当にそう思ってる。

そう思うけど、夜眠れない時はやはり不思議とそうやって考え込んでしまう時がある。

私がそういう時に思考する理由はなにか結論を出すためじゃなくて、ただ考えずにはいられない気持ちだったからというだけだと思う。

なんで考えざるをえないのかといったら「気になるから」それに尽きるということになってしまうと思う。

多分、上述の「パターン3」くらいの雑多なものまでになれば「考えること脳」になってしまって麻痺してきているんだけど、パターン3単体で考えているのではなくて、パターン1やパターン2みたいなことをまず最初に考えていることが多い。

それで「答え」というか自分なりの安心できる結論が出ないから、脳が疲れてきて「そういえば、あのことはどうなのだろう」とまた次々考えてしまうんだと思う。

考えても仕方がないことは重々承知している

パターン1については「考えても仕方がないこと」ではなくむしろ決めないといけないこともある。でも、そもそも夜の思考がかなりネガティブに傾き、脳が疲れている時に決断したりするのはよくないと私もわかってる

だから、多くの場合はその時に決めるつもりはないし、決めようと思って考えているわけではないと思う。

では、なぜそれなのに考えてしまうのか。

心配だから。早く決めなきゃと焦ってるから。なんとなくモヤモヤしていて、自分の心のなかにある「未解決問題」のフォルダがたまっていて気持ち悪いから。しんどいから。そんな感じだと思う。

 

パターン2については、紛れもなく「考えても仕方がないこと」に分類される。

こういう「◯◯になったらどうしよう」系の不安が出たら「じゃあ極力そうならないためにはどうしたらいいのか」っていうのを考えて思考をすぐ終わる人もいると思う。

ただ、私の場合その「どうしたらいい」ということをするだけでは到底防ぎにくい問題について考えていることが多いのが厄介なところ。もう、もしそうなったら諦めるしかないみたいなこともある。

思考を巡らせている時は、具体的な解決法を考えたいわけではなく、もしそうなった場合について妄想し「その場合自分はちゃんとやっていけるのかどうか心配だから考えてしまう」というどうしようもない心理状態だ。

 

パターン3についても考えても真実はわからないし、調べても様々な説が出てくるだけで明確な答えが出せないことが多い。考えるトピックによっては割と暗いので、結構メンタルが落ちることがある。

ふと思い出した本に書いてあったことや哲学的なことを考えたり、最近普及した◯◯は本当に健康にいいのか?とか。最近あった出来事で、あの人はどういう気持ちだったんだろう、とか。

これはほんの一例で、本当に雑多な(だけどなんか気になる)ことについてああでもないこうでもないと勝手に考えている

気になることを見つけてしまった時、その真相や真実を知りたいという気持ちが出る

→考えてみて自分の推論や想像の範囲で色々こうかな、と想像したあげく、真実はやはりわからないなという結論に至るから、ある程度考えたあと思考が終わる

→だからこそ、なんとなく後味悪く、もやもやした気持ちで終わる

→結果、スッキリ眠れない

多分、こんな感じ。ハア?って思う人が大半だと思う。

何があっても受け入れられるかどうかがわからない

私は世の中や身近で起きている悲しい出来事になかなか目をふせられないところがあって、どうしても自分に置き換えて考えてしまうことがある。

周りからは「起きてから考えたら良い」と散々言われるけど、そのガチャを引いたのがたまたま自分ではなかっただけだし、ニュースを見たり人の話を聞いたりして「これが自分だったら・・・」と思う時がある。

起きてから考えるしか無いのはもちろん正論であり全て正しい。でも、それが怖い。いきなり来て、ぶっつけ本番で受け入れられるかどうかが分からなくて怖い

そうなった時のことをあらかじめ想像しておいたからといって、ありとあらゆるケースに備えられるわけではないのも知ってる。

けど、怖いという感情が勝って、どうしても考えてしまうときがある。それが心が弱くなっている時。

「怖いもの見たさ」

怖いもの見たさって言葉ありますよね。

私は怖い話とか恐怖を煽ることについては本当に見たくないけど、「怖いけど気になる」っていう人もいますよね。

なんか、感情としてはそれに似ている気がしてる。「怖いんだけど、気になってしまうから知りたくて見てしまう」っていうやつ。

結局見たところで怖い気持ちにしかならないけど、「怖い事実がある」と知ってしまったからには、その内容が気になってしまって知りたいっていう。

心理学的用語で言うと「カリギュラ効果」(禁止されればされるほど知りたい)に通じるものがある気がする。「これ以上わからないから考えても無駄だよ」って言われてもそれは気になるというか。なんかそういう心理に近い気もした。

そう考えると、あれこれ考えるのがばからしくなったり。

将来の不安や危険に敏感になりすぎてしまうっていう点ではそれこそ人間の本能だけど、危険を過剰に察知し「戦うか逃げるか」状態が必要以上に起こっている(まさに不安障害のような状態)とも思った。

諦めるしか無い

考え事の末にここまで行き着いている暇な人も私くらいかもしれないけど、結局、この変な考え事をしてしまう理由って、仏教で言うところの有名な「足るを知る」が全くできてないのかなと、今日思った。

とはいえ、「足るを知る」をできるようになるなんて、完全にできてる人もなかなかいない気がするけど。

でも、考えても全くわからないことに関しては気になるけど必死で気をそらすしかなくて、あとは何とかしてそれができればいいかなくらいに思います。

私の好きな本で「さみしさサヨナラ会議」という本があって(小池龍之介さんという住職と宮崎哲弥さんの対談本)、その中にこんな言葉があります。

こっちに行こうとか、心をこう変えたいとか、相手に対してもっとこういう気持ちをつくりたいなどと思っても、所詮操縦した通りのところに着地しないので無意味なんですよ。

自分の心に「こうなれ、こうなるな」と命令を与えているつもりのとき、私たちの目の前にはハンドルがあるつもりでいるんですけども、実はそのハンドルと乗っているクルマの車輪のギアとは連動していないんです。

自分ができないことについて、思い通りにならないことについて、「あー、よしよし、受け入れられないんだな」と自身の気持ちに受容的になることから始めようと、私は小池さんの著書を読んで常々言い聞かせています。

どこか「孤独」とか「寂しさ」とか「不安」がある方は、もし興味があれば読んでみてください。

小池龍之介さんの著書は全部好きだけど、この本で出てきている考えはとても深くて考えさせられる、良い本だと思っています。何回も読み返したくなるし、気付きが多くありました。

それでも悩みは不変(普遍)のものではない

私が「今日眠れなかった」と言ったら夫はよく「楽しいことを考えろ」と言っている。

そんなのは無理です。

だって「楽しかったなあ」あるいは「こんなことが起きたら楽しいだろうなあ」くらいの、ものすごく軽い地点で終わっておかないと、それに執着してしまうので。

それとは裏腹に悲しいことが起きたら、私としては悲しみが2倍になってしまうような感覚。つくづくネガティブの申し子だとは思うけど。

そんな夫が昨日の夜寝る前に考えたことは仕事の件で「これを明日会議で言うか、それとも別の方法で周知がいいか」といった(私にとってはどちらでも良さそうに見えるようなことで)悩んでいたらしい。

夫の仕事内容は私も経験があるので、迷うのもわかるけど「そんな悩みで平和だな」と心底羨ましく思った。

私としては「考えればすぐに答えが出そうなこと」は日中(というか仕事中)に考えたらいいと思っているし、失敗したところで自分の人生に大きな影響はなさそうだから。

夫にしたら本当に悩ましかったんだろうけど、私がそれを聞いて「悩みがそれで済むなら本当にいいなあ」と思うように、私の考え事も見方が人と違うだけで「そんなこと大したこと無い」と思う人もいるかも

それに、「何一つ変わらないものはない」という事実のネガティブな側面ばかりを見ているけど、逆に言えばいつかこんなことで考え込んで苦しんだり、悩んだりすることをしなくなる日も来るのかもしれない

まあそれはないとは思うけど、そう思っておきたい。

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