コンプレックスの塊。(「女子をこじらせて」を読んで)

ここ数年も完全に治ったわけではないけど、私は特に20〜22歳くらいの時、コンプレックスの塊だった。

女友達と遊んでいても、自分のダメなところや未熟さに気づいてしまい、自己嫌悪することは何度もあった。いや、もちろん今でも全然あるんだけど、当時はやはり今よりも友達関係の付き合いが濃い時代だったので、余計にそういうことを気にしていた。


自分の容姿についてもそうだった。体重でいえば痩せているけど、パーツで気になっているところが本当にコンプレックスだったり。

他の人に比べて脚が太いとか、ここが気に食わないとか。大学生の時なんて本当にそういうことを気にしてた。だから、ほかの女の子と自分が一緒にうつっている写真をみて「この子は色気があって可愛いなあ」とか「この子には何しても勝てないな」とか、そういうことを思ってしまう。その繰り返しだった。


今考えたら、そこまでひどい劣等感の塊から、今は割とマシな境地まできたよなあ…とふと思ったり。

私は、この本のエピソードを見て、「自分も何か似通った経験をしてきたな」と思った。

高校・大学時代に所属していたグループではキラキラした子たちに囲まれていたけど、私は逆にそういうキャラではなくて「女子である資格がない」と思っているほうの人間だった。

いや、というよりは「私は、そういう女っぽいことをしてはいけない、自分でもそのことに気づいてるからまだイタくないよ」っていうことを自分でアピールしたかったんだと思う。

学祭でかわいい女の子たちの数人が模擬店で浴衣を着るといったときも、「私はそんなんじゃないからいいや」って心底思っていたから、着なかった。今から思えば、あの頃は本当にこじらせていた。

 
「私は勘違いしてないから、そんなイタい真似はしない」って自分で予防線を張っていたのだと思う。今から考えたら、仮に顔立ちが他の誰かと比べてよくなかったとして、そういう余計なことをぐちゃぐちゃ考えずに、普通にみんなと同じようにおしゃれを楽しんだり着たい服を着て笑ってる女の子のほうがよっぽどかわいいし、モテる。
 
当時にタイムマシンで戻って自分に何か言ってあげられるなら、間違いなくそれを指摘すると思う。「今すぐやめれ!!」って言ってどついたろうかと。
 
 
 
 
 
とにかく自意識過剰だったのだと思うけど、逆に若いうちに失敗体験をしたくなくて、とことん逃げてきたしっぺ返しが今きてるのかなあ、と。
 
ただ、いつから?って言われたらわからないけど、いつの間にかそれは消えている。コンプレックス自体はまだあるけど、ある意味今は違って、もうあとがないから、逆に体裁とか気にしてられないやってなってる。
 
 
 
 
 
でも、婚活してみようと思ったのもコンプレックスのおかげかもしれない、とも思う。「私はイケてないし、彼氏がいなくなったことだし、婚活しないと絶対結婚できないかもしれない」っていう不安から婚活し始めた経験も、もしかしたら今までの劣等感がなければ生まれなかったかもしれない。
 
「容姿も普通で凡人だし面白い話もできない私がモテるわけないから、もし結婚したいなら自分が動かなきゃいけないのか…」って心のどこかであきらめがついたのかな。逆に、もっとちやほやされて全然困らないくらい声がかかっていたら、私は今の年齢で婚活しようとは思わなかったはず。
 
 
 
と考えると、ある意味婚活から得られたことはいろいろあるし、コンプレックスにすら、ある意味感謝してもいいのでは?と。
 
劣等感で凝り固まってできていた「私」という人物が、自然と少しポジティブな部分を持てたりしたのは、自分をかわいがってあげられる人間は結局自分しかいないということを、もしかすると遅まきながらに気付いたからではないかと思うのです。
 
婚活で傷ついたりプライドがズタズタになって、それでもやっていかなきゃ、ってなったときにやっと気づいたような、そんな感じ。
 
 
 
 
 
きっと、傷つく過程で出会いだって広がるし、自分のことを好きになってくれる人ももっと多くいたかもしれない。なのに勝手に自分でこじらせていたことによって、そのチャンスを結構逃していたよな、と本当に今になって思う。
 
実際、23歳くらいのときにそんなようなことを人に言われたこともあるのだけど、いまいちその意味がよくわからずに「いやいや私なんか」って思っているばかりだった。
 
そこで気づけなかったこと、若い大事な時間をいじけたりひねくれたりして無駄にした時期があったのは確かに失敗だったのかもしれないけど、それに気付けたということに、今少し成長を感じているというか、うれしくなっている。
 
 
私のコンプレックスもまだ消えてはいないけど、見つめ続けて大体付き合い方がわかってきた。よしよし、しょうがないね、って折り合いをつけながら共存できるようになっていている。ほんの少し。
 
 
 
本当に年を取ることに悲観的になってばかりいたけど、悪いことばかりではないかもしれません。

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